イスラム教徒94%の国セネガルで迎えた5回目のクリスマスイブに、以下の記事を読みました。
Amazon倉庫で働くイスラム教徒が礼拝時間の取れない「不公平」な勤務体制に抗議デモ
(一応英語・仏語記事にも何本か目を通しました。以下は一例)
Twitterでも少しつぶやいていたのですが、本件について、僕なりの結論があるのでそれを記します。
間違っている事もあるかもしれません。
TwitterやNewsPicksで、みなさんのご意見・ご感想をコメントいただけたらうれしいです。
なお前提として、僕は特定の宗教を信仰していません。
(また、僕自身は普段は「イスラーム」「ムスリム・ムスリマ」という言葉を用いる事が多いですが、文中では表記はすべて「イスラム教」「イスラム教徒」で統一します)
(↓↓イスラム教の理解には、以下の記事に記している書籍が参考になると思います↓↓)
2019/1/15追記
おかげさまでうれしいコメントをいくつもいただいています。
これは読み応え、ある。
そして今後の日本も。 https://t.co/vSnOq5NFRv— shichi (@__shichi__) January 3, 2019
目次
抗議するほどの環境なのか?実際にAmazon倉庫で働いている人に聞いてみた
自分の意見を記す前に。
彼らがどんな環境で働いているのか、現場の生の声を直接聞いてみたくなりました。
そこで僕は、実際に某先進国のAmazon倉庫で働いている人にインタビューを行いました。
その方の声が、以下の通りです。
Amazon倉庫で働いている方の声
・誰にでも同じ目標値を課すのは少しだけ厳しいかもしれないとは思います
・年齢も性別も、様々な人が働いているので、差が出るのは当然なのですが、それが受け入れられない雰囲気があります
・また、全ての作業が監視されているという点は少し、不気味にも思えます
・捉え方次第では、非人道的(人間を奴隷のように扱っている)とも言えるかもしれません
上記以外にも、
・1時間の作業ノルマは240個(記事と同じ)
・少しでもペースが遅れると「どうしました?具合悪かったりしますか?」と監視員?が見に来る
(↑聞いてゾッとしました)
・作業数がデータとして残る
など、さまざまな事を教えてくれました。
色々話を聞いてみてまず感じたのは「個人に向き合わない」Amazonの姿勢です。
人間として一人ひとりには向き合わない姿勢は、少し不気味に感じました。
同時にこれは「ある意味究極の平等」だと感じました。
僕はこの平等さ、個人的には好きです。
個人の事情(例:妻子持ち)を勘案して給与を決定する企業とか大嫌い。仕事のみで評価すべき、というのが持論です。
以上、インタビューの結果、Amazon倉庫の労働環境について抗議したくなる気持ちが少し理解できたところで、次に進みます。
・倉庫内の気温
・ノルマの過剰さ
など、礼拝時間確保以外の環境改善要求については、理解のできる内容でした。
現代社会における宗教の存在意義とは何か?僕は1つだと思う
先に結論です。
僕は、現代社会における宗教の存在意義は「個人の精神的安定の補助を通じた世界平和への貢献」だと思っています。
そのため、他人の心の平穏・安定・幸福を妨げる宗教的行為はナンセンスであると考えます。
元々宗教は、自然災害や天変地異など、科学が発展する以前には説明できなかった現象への畏怖や、人間の力ではどうしようもない事への対処法の一つとして生まれました。
不安に思う心と、それをどうにかしようとする心、この心の拠り所。
科学の発展により、さまざまな現象が説明可能になった現代。
僕は、現代において、個人にとっての宗教の意味は、以下の3つについての考え方の例を学べる事だと考えています。
・生(生まれた意味、生きていく意味)
・死(死生観、死後の世界)
・幸福(幸せとは何か、幸せになる方法とは)
科学では証明できない「不確かなもの」だからこそ、不安を感じ、答えを探し求め苦悩する。
そうした人間に考え方の方針を示す。人間の精神的安定の補助が、宗教の役割です。
また宗教は、為政者により国の統治に用いられるなどの歴史的背景も有り、社会的規範、道徳的観念、そして生活習慣と密接なかかわりがあります。
そのため、宗教はライフスタイルであるという事もできます。
つまり、宗教が異なれば、互いに違和感を感じるのは当然の事です。
違いがある事は互いに認識しつつも、互いを尊重する気持ちは大切です。
宗教が幸福を説き、人間の精神的安定の補助の役割を果たすものなのだとしたら、僕は、宗教が争いの火種になるのはナンセンスだと考えています。
よって、冒頭で示した通りの結論となります。
改めて、僕は、現代社会における宗教の存在意義は「個人の精神的安定の補助を通じた世界平和への貢献」だと思っています。
イスラム教は、日本で意味するところの「宗教」とは少し違う
日本で「宗教」という言葉を使う時は、どこか「自ら積極的に選択し信仰しているもの」という意味合いが強いと思います。
ですが、上述の通り、宗教はライフスタイルと密接にかかわっている。
それどころか、ライフスタイルそのものだったりします。
イスラム教はまさにそうしたもので、日本で言うところの「生活様式(ライフスタイル)」的なところがあります。
「信じる信じないにかかわらず、そこにある」「それが当たり前」というものです。
(イスラム教について知りたい方は、以下の書籍が分かりやすくておすすめです)
そもそも、僕たち日本人にも、宗教由来の(とされる)風習が沢山ありますね。
冠婚葬祭はもちろんですが、小学校で、
「はい、手を合わせて、みんなでいただきます」
なんてやっているのなんて、外国人からしたら完全に宗教だと思うでしょう。
あと「初詣」「御守り」なんかもそうですね。
ですが、やっている当人達には宗教的な意識は無いわけです。
僕らと同じように、イスラム教徒は左手は使わないようにしたり、豚は食べなかったり、そして1日5回祈ったりするわけです。
こうした事には、実は実利的な意味もあります。
ご存知の方も多いと思いますが、たとえば豚肉がタブーになっているのは、以下のような理由があると言われています。
・家畜としての利用価値が低い(鶏なら卵産む、羊なら毛、牛なら乳)
・ライフスタイルに反する(遊牧民・狩猟民の場合※諸説あり)
・感染症予防(豚はさまざまな病原菌を持っている)
・怠惰的(年中交尾、労働力としての価値が低い)
・高い飼育コスト(食料が人間と重複、水※)
・反芻しない動物
・不潔な見た目
etc...
上記のように、実は豚がダメな理由は大半が実利的なもの。
そうです。イスラム教は実利的な面も持っているのです。
(※お祈りの前に手・足・口・鼻・顔などを洗う行為(ウドゥーと呼ばれます)は、衛生を考慮していると言われています。一方、それなりに水を使うので、その点についてはどう考えていたのだろう…もしご存知の方がいたら教えてください)
話を戻します。
イスラム教は、ライフスタイルそのものとなっています。
そう考えると、彼らにとってはそれが当たり前すぎて、イスラム教を「自ら積極的に選択した」とは思っていない人もいます。
でも。
それでも僕は、成人以後は、どの宗教を信仰するか(つまりどのようなライフスタイルを選択するか)は、自分の選択だと思います。
未成年は国民の義務が無い分、権利と自由が制限されているため、その間は「環境次第」であり、なかなか自由意思による選択は難しいです。
ですが、成人には、選択の自由があるのです。
インターネットで世界が繋がる時代。
情報が無い、アクセスできないという言い訳はごく一部の国を除き通じないでしょう。
特に、今回のように舞台がアメリカでとなればなおさらです。
平和・調和を乱す宗教はいらない。宗教が尊重されるべきは「他人に迷惑をかけない範囲まで」だと思う
・職業選択の自由
・居住移転の自由
・信教の自由
etc...
僕たち(成人)には自由があります。
自由には責任が伴います。
つまり、自由意志で選択した事による結果には、自分で責任を取る必要があります。
そんななか、僕らはさまざまな宗教を信仰したり、無宗教でいたりするわけです。
僕は、イスラム教徒が好きです。
世界20ヶ国ほどしか訪れた事はありませんが、「親切な人が多いな」と思う国はすべからく、イスラム教徒が多数派の国でした。
ですが、それとこれとは別です。
今回の件、僕は、礼拝時間の事に関しては、Amazon側の対応を支持します。
仮にイスラム教徒が礼拝によりノルマをこなせなくて解雇されたり、評価が下がったとする。
これは、差別でもなんでもありません。至極当然の結果です。
なぜなら、そうでなければ「イスラム教徒以外の従業員への逆差別」となるからです。
僕は、イスラム教の教えに時折垣間見える「排他性」が好きではありません。
イスラム教徒以外の人間の事を下に見て、軽んじる姿勢です。
イムラーン一家 メディナ啓示 全二〇〇節 第一一〇節
汝らは、今まで人類のために生れ出た集団の中で最上のもの。汝らは義しい(ただしい)ことを勧め、いけないことを止めさせようとし、アッラーを信仰する。啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)も(汝らのように)本当の信仰をもったなら、自分らのためにもどんなによかったか知れないに。彼らの中にも立派な信仰をもった者もおる、が、大部分は無信仰。
日本ムスリム協会発行「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」
イムラーン家章 マディーナ啓示 第110節
参照元:http://islamjp.com/culture/koran_frame.html
あなたがたは、人類に遣された最良の共同体である。あなたがたは正しいことを命じ、邪悪なことを禁じ、アッラーを信奉する。啓典の民も信仰するならば、かれらのためにどんなによかったか。だがかれらのある者は信仰するが、大部分の者はアッラーの掟に背くものたちである。
神兆 メッカ啓示 全八節 第六節
信仰に背いた啓典の民と多神教徒は、ジャハンナムの火に落ちて、そこに行く末永く住みつく定め。これこそ最悪の被造物。
日本ムスリム協会発行「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」
明証章(アル・バイイナ) マディーナ啓示 第6節
参照元:http://islamjp.com/culture/koran_frame.html
啓典の民の中(真理を)拒否した者も、多神教徒も、地獄の火に(投げ込まれ)て、その中に永遠に住む。これらは、衆生の中最悪の者である。
モスクから聞こえる礼拝を呼びかけるアザーン。
スピーカーから爆音で流れるアザーンは、イスラム教徒以外の人の中には迷惑に感じる人もいるでしょう。
イスラム教徒が多数を占める国ではまだ許されるかもしれません(それでも、少数派の人権侵害に近いものがあると感じますが)。
ですが、イスラム教徒が少数派の世界中の国でも、爆音のアザーンが流される。
これ、世界中でたびたび問題になっています。
ガーナでは、アザーンの騒音問題の解決法としてWhatsappが。
なんと、イスラム教徒の中にも、アザーンは「騒音だ」という人達がいます。
たとえば仮に豚を崇める宗教があったとして(「豚教」とでもしましょう)、イスラム教徒が多数派の国で、毎日豚の鳴き声をスピーカーで流したり、毎日彼らの家の近所で豚を散歩させたり、豚肉を焼いた煙を出していたら、イスラム教徒はどう思うでしょうか?
僕は、アザーンが悪いと言っているのではありません。
ましてや、イスラム教が悪いと言っているわけでもありません。
他人に迷惑をかけるなと言っているのです。
郷に入れば郷に従え。
僕はいま、イスラム教徒が国民の94%を占める国、セネガルにいます。
だから、アザーンは当たり前のものとして受け入れています。
人は変えられないから、自分が変わるしかないのです。
Amazonのニュースに話を戻します。
誰も、このイスラム教徒たちに、そこで働き続ける事を強要していません。
嫌なら辞めれば良いのです。
自宅でできる仕事をしましょう。
礼拝時間を確保できる会社に入りましょう。
自分で理想の会社を創りましょう。
もしくは、礼拝してもノルマをこなせるスピードを身に着けましょう。
・
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・
僕は、セネガルに住み、イスラム教徒に囲まれて生活をしてきました。
結果として、僕は、イスラム教を嫌いではなく、好きでもありません。
普通です。
なんなら、前述の通り、僕は、イスラム教徒が好きです。
ですが、それとこれとは別です。
Amazon倉庫の件は、日本人にとっても他人事ではない
このタイミングで記したのは、もう一つ理由があります。
それは、来年4月から、日本で外国人労働者の受け入れが広がるからです。
たとえば受け入れ拡大対象となっている介護の現場で、イスラム教徒が作業を中断して、お祈りを始めたらどう思いますか?
宿泊業の現場で、チェックイン前にベッドメイキングが必要なのに、お祈りで間に合わなかったらどうしますか?
(考えるきっかけとしての具体例として挙げているだけです。工夫によってやりようはいくらでもあると思います)
このAmazon倉庫のニュースの問題はもはや、日本にとっても他人ごとではありません。
こうした事が起きた際、慌てたり変に気を遣いすぎて自分達の首を絞める変な事態にならないよう、自分の中で考えを持つ事が大切です。
最後までご覧いただきありがとうございました。みなさんは本件、どう思われますか?
僕が間違っている事もあるかもしれません。博識なNewsPicksユーザーのみなさんのご意見・ご感想もぜひお聞きしたいです。
ご感想、お待ちしております。